福田ますみのルポルタージュ『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』を原作に、三池崇史監督が映画化した『でっちあげ ~殺人教師と呼ばれた男』。2003年、小学校教諭・薮下誠一(綾野剛)が児童・氷室拓翔(三浦綺羅)への体罰で保護者・氷室律子(柴咲コウ)から告発され、週刊春報の記者・鳴海三千彦(亀梨和也)による実名報道により「史上最悪の殺人教師」というレッテルを貼られた事件を描く。誹謗中傷や停職処分に追い込まれながらも、法廷で薮下が口にしたのは「すべて事実無根のでっちあげ」という完全否認だった。極めて複雑で多面的な人間の真実を描いた本作で、主演を務めた綾野剛は従来とは異なる表現論に挑んでいる。台本を読んだ瞬間の感想を「ただただワクワクした」と振り返る綾野。それは年齢もキャリアも違う、積み上げてきた作品も違う共演者たちとの「異種格闘技戦のような」体験への期待からだった。
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■「ノーガードの打ち合いのような真剣勝負」だった演技合戦
「お1人お1人とノーガードの打ち合いのような真剣勝負でぶつかり合える。1本の作品で、これだけ違う感情を宿した方々と対峙する役を演じられる経験はとても貴重ですし、なかなか出会うチャンスはありませんから、そこにすごく“滾(たぎ)った”んです」実話をもとに描かれた原作を映像化という形で背負う責任感やプレッシャーについて問うと、綾野の答えは意外なほどに軽やかで、かつ誠実なものだった。「マンガ原作、小説原作、オリジナル、そして実話ベースの作品、今はあらゆるものが映像化できる環境になっていますが、どの作品にも真摯に向き合うという点では変わりません。僕にとって関わる作品は全て特別ですから」。
実話だからといって特別に何かしら出力を上げなければいけないわけではなく、1つの作品として誠実に作品作りができる“一員”として、どうあるべきかを基本的に考えると語る。取材中に何度か繰り返されたのが、この“一員”という言葉だった。
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薮下誠一という人物についても、綾野は慎重に言葉を選ぶ。「できごとにはいろんな側面がありますが、今作は福田ますみさんのルポルタージュをもとに映像化させていただいていますので、福田ますみさんが集中し書かれた多面的な現実の中のある一面を描いているに過ぎません」。
■役作りではなく「作品作り」という意識
これまで『コウノドリ』(TBS系)で愛情深い産婦人科医を、『フランケンシュタインの恋』(日本テレビ系)で心優しい怪物を演じるかたわら、『闇金ウシジマくん』シーズン2(MBS)では冷酷な情報屋・戌亥を、『MIU404』(TBS系)では身体能力に優れた心優しく危うい“野生のバカ”刑事を演じるなど、実に幅広い役柄を手がけてきた綾野。そんな多彩なキャリアを持つ彼の“集大成”とも言えるのが、角度を変えると全く別人のように見える薮下誠一へのアプローチである。なぜなら本作では、冒頭から同じ場面が、告発者・律子の視点からと、薮下の視点からそれぞれ描かれるのだが、2人が語る「薮下」が全く別人の様相を呈しているためだ。
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今回の綾野の芝居における最も特徴的なポイントは「情報量」への意識だ。「薮下誠一という人を生きるにはどう見せたいかではなく、どう見られるかを大切にしていました。細かい情報を削いでいくことは可能ですが、あえて情報過多にすることで誤解をたくさん散りばめるようにしました。見る人が変われば、角度も切り取り方も変わる。同じ人の同じ行動でも伝え方や受け取り方、状況や感覚次第で印象が全て変わってしまいます」。冒頭で登場するのは、律子の家に家庭訪問で訪れた薮下。服も靴下もびしょ濡れで、何度も舌打ちをする、失礼で不穏な雰囲気を漂わせる人物だ。しかし、その同じ場面を薮下の証言からたどってみると、びしょ濡れで現れた理由も、「舌打ち」の意味合いも変わってきて、弱気でおどおどした人物像が浮かび上がる。2人の視点から見た景色の違いに気づいた瞬間、観ている者はおそらく鳥肌が立つだろう。しかし、これはまだ序盤に過ぎない。
この作品で綾野が強調するのが「役作りではなく、作品作り」という考え方だ。「俳優はあくまで作品を作っていく中の一部署であり、“作品作り”の一員だと思っています。今回は同じ場面を作る上でも、俳優の芝居だけでなく、座る位置や照明の組み方、カメラのアングル、切り取りや切り抜き方などの違いで、景色や印象を表現しています。それぞれがプロの仕事を持ち寄る総合的な作品作りです」。
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■“憑依”=良い芝居? 綾野剛の芝居観とは
本作の中では、1人の人物を別の角度から別人のように見せ、なおかつ時間の経過と共に追い詰められていく人間のリアリティを生々しく表現している。その変幻自在の有り様からは、綾野についてしばしば語られる“憑依系”という表現が浮かんでくるが……。「憑依」という言葉について、綾野は複雑な表情を見せる。「憑依しているというように薮下や律子さんが見えていたのであれば、嬉しいですし、そういった瞬間を少しでも多く得られ、より精度を高められたらという思いはあります。ですが、憑依していたら良い芝居かどうか、そういう基準では考えていません」。
その理由についてはこう語る。「憑依と言われるのは、時に個人的で、時に贅沢で、時に作品から離れているものだと思います。準備をたくさんしてきた方々がこの作品に関わっています。例えば憑依してしまうと三池監督のことも認知できない。それは作品に対して、とても危険なことかもしれません。ただ、その憑依に近い発見と言いますか『微細の表情』とか、『未開な筋肉の動き』『声帯域の更新』など、知らない自分を発見する瞬間があります。それは現場の風土が導いてくれたもので、決して自分1人の力ではありません」。
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同じ人が同じことをやっても、見る人や角度が変わると、全く違って見えてしまう恐ろしさ。しかし、これは現実にも十分に起こりうることだ。綾野いわく「129分の壮大な切り抜きともいえる問題作」に無数に散りばめられた情報により、何が真実かどんどんわからなくなってくる。1人の教師の人生を狂わせた「でっちあげ」の恐怖は、観客に重い問いを投げかける。(取材・文:田幸和歌子 写真:上野留加)
映画『でっちあげ 〜殺人教師と呼ばれた男』は公開中。
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